人気ブログランキング | 話題のタグを見る
Sarah-Gem Blog
sarahgem.exblog.jp

熊本市でジュエリーサロンショップ「セーラ・ジェム」を経営する伊藤和のブログです。

by sarah-gem
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
About Me
熊本市在住
≪Gemology≫
1976年、宝石の仕事に初めて携わる。
1978年、国内鑑定所で資格取得。
1983年、GIA(米国宝石学会)にて Graduate Gemologist資格取得。
1986年、独立してセーラ・ジェム開業。
≪Ecology≫
ジュエリービジネスを始めて、宝石が自然の賜であり、環境保護がいかに大事であるかを痛感。ボランティアでエコロジー活動に取り組み始めた。
≪Ufology≫
1962年、高校2年の時、ジョージ・アダムスキーの「空飛ぶ円盤同乗記」を読み感動。UFOに関心を持ち始める。その10年後、UFOを目撃体験。以後、UFO研究をライフワークとする。
 セーラ・ジェムホームページ
【コメントの記入方法】
 ここをクリックしてください
【My Friends Link】
 環境ネットワークくまもと
 松下生活研究所
 苓北真珠
 小椋住宅
 白木力建築設計室
 EII教育情報研究所
 瑞鷹株式会社
 KLCC
 SGI
 UFO STATION
 Pilot International Japan
 熊本市役所
 ヘルマン ヘッセ ページ ジャパン
 日本ショーペンハウアー協会
 こころりあんBLOG
 Tozen-nana Story
 熊本綜合設計BLOG
以前の記事
2021年 07月
2020年 08月
2020年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 03月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2016年 09月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 11月
2015年 05月
2014年 07月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 09月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
最新のトラックバック
フォロー中のブログ
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その1
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その1_a0063658_14544918.jpg

左から
1998 『ヘッセ魂の手紙』 ヘルマン・ヘッセ研究会         毎日新聞社
1999 『ヘッセへの誘い』 ヘルマン・ヘッセ研究会・友の会    毎日新聞社
2005 『ヘルマン・ヘッセ全集』 ヘルマン・ヘッセ研究会・友の会 臨川書店
     第一回配本 大4巻 『車輪の下』 ・ 物語集Ⅱ1904-1905

2005年に『車輪の下』の訳者による解説の一部を紹介しました。
今回は、訳者が12年(11年か?)前の夏休み、ドイツに短期語学研修で滞在した折に
合間をぬって欧州を駆けめぐり、文豪・芸術家・思想家・哲学者ゆかりの地を訪ねた中、
ひときわ印象深かったことを短文にまとめたものを紹介します。
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その1_a0063658_15245819.jpg

 
『欧州における旅と思索』           文学部人文学科3年  伊藤 貴雄
  第1節 プリンセン運河二六三番地

 「私たちのすばらしい『隠れ家』--戦時下のアムステルダムで、十三歳のアンネ・フ
ランクは、自分たちの秘密の住居をこう呼んだ。それは「こんなに広くて、こんなに明る
い部屋が、運河に面したこういう古い家の中にあるなんて、とても信じられません」(四
十二年七月九日)と彼女自身が書いているように、外観は何の変哲もない運河のほとりの
建物である。しかし、その中ではーー今からちょうど五十年前にー信じられないほど感
動的な闘争のドラマが演じられていたのである。
 九月の初めに、私はアムステルダムを訪れた。「北のベニス」とも言われるように、お
そらくヨーロッパで最も美しい都市の一つであろう。目をつぶると、たゆとう運河の水、
緑鮮やかなほとりの並木、水面に映えるこげ茶色のレンガの壁ーーそれは白い窓枠と
絶妙のコントラストをなしているーーが、今なお私の脳裏に鮮明によみがえってくる。
 その日は雨が降っていたが、青空もわずかに顔を出していた。朝早く出かけたのにもか
かわらず、プリンセン運河二六三番地の前は大勢の人がアンネの隠れ家を見ようと行列を
つくっていた。一時間はど待って私もやっと中へ入ることができた。狭く、恐ろしく急な
階段を上り、しばらく行くと、そこには有名な「回転式本棚」が開かれている。そこを通
り抜ける時、私は何かが背筋を走る思いがした。
 「絶対外に出られないってこと、これがどれだけ息苦しいものか、とても言葉には言い表
せません」(四十二年九月二十八日)--アンネの声が聞こえるようだ。彼女とその家族
を含む八人の人々が、ここでゲシュタポの目を逃れて約二年間の生活を送ったのである。
それがどれほど不便な生活であったか、想像を超えたものがある。もちろん風呂などない
し、トイレは夜しか使えない。病人が出ても医者さえ呼べなかった。だが十三才の快活な
少女にとって、これら生活の不便にもましてつらかったことは、活動範囲を著しく制限さ
れたことであった。
 「・・・・・人と話したい、自由になりたい、お友達が欲しい、一人になりたい。そしてなによ
りも・・・・思いきり泣きたい!」(四十四年二月十二日)
 しかし、泣くことさえも許されていなかったのである。
 感慨にふけりながら、私はつぎにアンネの部屋へ足を踏み入れた。ここで彼女は「日
記」を書いていたのであるが、入ると同時に私は思わず目頭が熱くなった。
 というのも、その部屋の壁には左右両面に、写真や絵画、映画スターの切り抜きなどが
びっしりと貼られていたからである。大きな田舎の写真もあれば、赤ちゃんや子供のかわ
いらしい写真もある。右側の壁の片隅に、のダ・ヴィンチの自画像が貼ってあったのが微笑
ましかった。
 幅は二メートルもない狭い部屋である。その殺風景な壁を少しでも明るいものにしよう
と、少女は並々ならぬ工夫をしたのだった。そこには健気な心があった。あの偉大な魂の
記録である「日記」の背景に、このような涙ぐましい努力があったのかと思うと、私は深い
感動を禁じ得なかった。この部屋を訪れて、戦争の生々しい傷跡に胸のうずきを感じな
かった者はおそらく一人もいないであろう。
 圧倒される思いでアンネの部屋を出て、階段を上ると、彼女が恋人のペーターと一緒に
多くの時を過ごした部屋があった。この部屋の窓から彼女はよく外を眺めていたようであ
る。
 「そこからは、アムステルダム市街の大半が一目で見渡せます。はるかに連なる屋根の
波、その向こうにのぞく水平線。それはあまりに淡いブルーなので、ほとんど空と見わけ
がつかないほどです。
 それを見ながら、私は考えました。『これが存在しているうちは、そして私が生きてこれ
を見られるうちはーーこの日光、この晴れた空、これらがあるうちは、けっして不幸には
ならないわ』って」(四十四年二月二十三日)
 何と強く、そして美しい心であろうか。アンネは別の日に次のようにも言っている。
 「(略)私は、どんな不幸の中にも、つねに美しいものが残っているということを発見し
ました。(略)それだけの勇気と信念を持つひとは、けっして不幸に押しつぶされたりは
しないのです」(四十四年三月七日)
 つらく悲しい日々が続く中で、アンネは偉大な楽観主義で明るく生きようと努めた。そ
して彼女にとって自己の魂との対話であった「日記」を通して、彼女は人生への洞察を
深めていく。その恋愛観、女性観から人間観、社会観に至るまでの幅広い考察には、こ
れが十四歳の少女の手になる日記なのかと、私たちはただただ目を見張るばかりである。
またその頃から彼女は一つの夢ーージャーナリストになりたいというーーを持つようにな
る。
 「(略)私は世間の大多数の人たちのように、ただ無目的に、惰性で生きたくはありませ
ん。周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。
(略)私の望みは、死んでからもなお生きつづけること!」(四十四年四月五日)
 私はアンネのこの言葉を、日本の文化人や政治家、ジャーナリスト達に聞かせたいと思
う。これほどの大志を抱いてペンを持つ人がいったい日本にどれほどいるのかーーと。多く
は商業主義に毒され、真実かどうかもわからないスキャンダルのオンパレードで金稼ぎに
狂奔しているだけではないか。またそれらの「うたかた」の如き言論に惑わされる国民も、
まことに哀れというべきではないか。
 しかし、文筆によって人に尽くしたいというアンネの美しい大志も、卑劣な密告による
「隠れ家」の住人の全員逮捕によってあえなく打ち砕かれてしまうのである。一九四四年
八月四日午前十時のことだった。半年後にアンネは、リューネブルクの強制収容所で、
チフスに感染し、十五年の生涯を終えた。
 「隠れ家」を出て資料室に入ると、本物の「日記」が展示してあった。赤いチェックの表
紙のそんなに大きくはない日記帳である。アンネの直筆を見て、言い知れぬ感動を覚え
つつ、私は、平和への誓いを胸に、プリンセン運河二六三番地をあとにしたのだった。
by sarah-gem | 2006-05-29 17:53