Sarah-Gem Blog
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熊本市でジュエリーサロンショップ「セーラ・ジェム」を経営する伊藤和のブログです。
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熊本市在住
≪Gemology≫
1976年、宝石の仕事に初めて携わる。
1978年、国内鑑定所で資格取得。
1983年、GIA(米国宝石学会)にて Graduate Gemologist資格取得。
1986年、独立してセーラ・ジェム開業。
≪Ecology≫
ジュエリービジネスを始めて、宝石が自然の賜であり、環境保護がいかに大事であるかを痛感。ボランティアでエコロジー活動に取り組み始めた。
≪Ufology≫
1962年、高校2年の時、ジョージ・アダムスキーの「空飛ぶ円盤同乗記」を読み感動。UFOに関心を持ち始める。その10年後、UFOを目撃体験。以後、UFO研究をライフワークとする。
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<   2006年 05月 ( 14 )   > この月の画像一覧
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その3
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文を紹介します。
大学3年生夏休み、2か月の欧州(ドイツが主)研修の折のものとのこと。

  『欧州における旅と思索』           

  第3節 ダッハウの強制収容所

 ミュンヘン滞在の三日目、私は郊外のダッハウへ向った。電車で一時間ぐらいの所で
ある。朝から厚く雲がたれこめ、着く頃にはぱらぱらと雨が降っていた。上着を着ていた
にもかかわらず少々肌寒く、木々のこずえもかすかに震えているように感じられた。
 「ダッハウ」--この名前はドイツの人にとって一種特別な響きを持つようである。一見
平和な田舎村なのだが、戦争を体験した人、あるいは戦争について学んだことのある人
は、この村の名を聞くだけで過去の忌まわしい歴史を思い出すのだろう。
 そう、五十年前まで、そこには悪名高い強制収容所が存在していたのである。それも
最も初期に作られたものの一つであり、その歴史はヒトラーが首相の座についた一九三三年にさかのぼる。以後十二年間にわたって収容された人々の数は、確認されているだけでも
二十万六千二百六人にのぼるという。 この収容所は、次の二点において他の多くの収容所異なっていた。第一に、収容された対象が主に政治犯であったということ。第二に、この収容所が人体実験に力を注いでいたということである。
 日本ではアウシュビッツ収容所の名前は良く知られているが、ダッハウの名前はあまり
知られていないようだ。恥ずかしいことに、私もドイツに行くまでは知らなかった。同じ
マンハイムの語学学校に来ていた二人の日本人の友達が、ぜひとも行った方がいいと教え
てくれたのである。今私はその二人の友達に心から感謝をしている。
 小じんまりとしたダッハウ駅からバスで約二十分乗った所に強制収容所跡はあった。今
は博物館となっている。天候の悪さにもかかわらず多くの人が訪れていた。老人もいれば
子供もいる。私と同じ年頃の青年達が多くいたのがうれしかった。
 当時の面影を残しているものはそれほど多くはなかった。収容所の回りは鉄条網で囲ま
れており、収容のつらさに耐えかねた多くの囚人がここで自殺を図った。隅に立つ監視塔
からはかつて冷たい銃口が光っていたことだろう。収容所の内部はがらんとした広場にな
っており、わずかに収容バラックの一つが当時のままに復元されている。他は残されたコ
ンクリートの土台がバラックの数を物語っている。二列に並んでおり、全部で四十近くも
あろうか。それぞれの土台の横に大きなポプラの木が一本ずつ立っており、これは当時か
らのものらしい。何事もなかったかのように葉を茂らせているが、もしこれらの木に口が
あって、かつて見てきたことを語ったならば、聞く者は身の毛がよだつであろう。彼等に
代って今は収容所の奥に建つ資料室がその声を代弁している。
 私は資料室に入った。
 たくさんの貴重な資料が写真とともに展示されている。収容されていた人々の写真ーー
中には十代のあどけない少年もいたーーをはじめ、拷問の写真、死体焼却所の写真等々。
思わず目を背けたくなるようなものもある。文書としては、ナチスの命令書、囚人達の手紙、
あるいは家族の手紙、死亡診断書等々。そうした中に特に忘れがたい二つの写真があった。
 一つはガス室へ向う母子の写真である。後ろから撮ったもので、しかも全員が頭巾をか
ぶっているために顔は見えない。母親は前かがみで、小さな子供を一人抱えているよう
だ。その横に三歳と五歳ぐらいの女の子と男の子が寄り添うように歩いている。彼らの後
にはもう一人、七歳くらいの女の子がポケットに手を突っこんで母親について来ている。
 何と痛ましい光景であろうか。明らかに、待ち受けている運命を知っているの母親だけ
である。彼らはどのような会話を交わしているのだろう・・・。考えることさえ不可能である。
 もう一つの写真は、一連の人体実験の記録である。これはナチスの医師によって撮られ
たものであり、冷凍実験と気圧実験の経過が生々しく伝わってくる。次の記述は実際に人
体実験に立ち会った医師の証言である。
 「実験台に使われた人間は冷たい氷水の中に漬けられ、意識を失うまで出してもらえな
かった。血がその顔から採られ、一度水の温度を下げるごとに体温が計られた・・・最も
体温が下がったのは摂氏一九度を記録したが、大がいの人は二十五度から二十六度に
なると死んでしまった」
 私はその写真を見ながら、同時に、日本の軍隊が戦時中に中国や韓国で行なったこと
を考えていた。--ドイツではこのように自国の歴史に対して厳正に対応しているのに、わ
が国では南京大虐殺や従軍慰安婦、七三一部隊について、教科書に載せることさえまま
ならなかったではないか。長年「歴史的事実」として認めがたいとの見解を示してきた政府
は、つぎつぎと証拠・証言が現われてくると、「数が正確でない」というレトリックで逃げはじ
める。七三一部隊に至っては、部隊がアメリカに人体実験の記録文書を渡すことを条件に、
戦犯として問われなかったため、つい最近まで国民のほとんどが知らなかったほどだ。一体
わが国の倫理観はどこまで狂っているのかーー。
 資料室の出口に、アメリカの詩人・哲学者のサンタヤーナの言葉が掲げてあった。

 「過去を記憶にとどめることができない者は
  過去を繰り返す運命にある」
 
 ダッハウの強制収容所跡が現代に意味するものは、まさにこの言葉にほかならない。
過去の過ちを繰り返さないことーーここにこそ私たちが歴史を学ぶ意義はあるのである。な
ぜなら私たちも同じ人間であるかぎり、同じ過ちを犯すことはあり得ないとは、けして誰も
言えないからである。
 「もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力を振るいたいと
いう本能があります」(『アンネの日記』四十四年五月三日)
 私たち自身の胸の中に、平和の因を築くのか、それとも戦争の因を築くのかーー。未来を
担う世代として、良くも悪しくも人類が過去に何をして来たのかを知ることは、私たち青年の
当然の責務であろう。
 複雑な、しかし熱く確かな思いを抱いて私は資料室を出た。雨はすでに止んでいたが、
空は依然としてどんよりと暗く、風も冷たかった。
 バラック跡に立つポプラの並木が、かさかさともの悲しげな音をたてていた。あたかも
永遠に消えることのない嘆きを切々と訴えるかのようにーー。ダッハウは強烈な印象を私の
胸に焼きつけた。罪なく犠牲となっていった人々の死を無駄にしないためにも、私はこの日
のことを多くの友人に語ろうと決意して収容所跡を去った。ある偉大な政治家の言葉を胸
の中で繰り返しながら。

 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」
                  --リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカ―
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写真は、ドイツの山城 エルツ城の絵葉書と、城を背景に本人。
電車をまちがって降りたところがたまたま かねてから憧れのエルツ城であった。
加えてちょうどその日は本人の誕生日だった!そうです。

この十日ほど前には、ヘッセの生家とシラーの生家を訪れたとのことでした。
     
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by sarah-gem | 2006-05-29 23:26
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その2 
  『欧州における旅と思索』          文学部人文学科3年 伊藤 貴雄
  第2節 ミュンヘンの「白バラ」
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 九月半ばにミュンヘンに三日ほど滞在した。二日目の朝は雨だったが、午後にはからり
と晴れ、青空が広がった。私にはどうしても訪れたいところがあり、ピナコテーク美術館
と美しいイギリス庭園を散策した後、徒歩でその場所へ向った。ミュンヘン大学である。
 なぜミュンヘン大学なのかというと、そこに「ショル兄妹広場」と「フーバー教授広場」
という二つの広場があることを、本で読んで知っていたからである。ショル兄妹とフーバー
教授ーー言うまでもなく、ナチス時代に学生抵抗運動を起こした「白バラ」グループの
メンバーの名前である。日本では「白バラは散らず」(未来社版)という題の本が出版され
ているので、読まれた方も多いと思う。
 その二つの広場を探すのに、はじめはかなり手間取った。ここでもない、あそこでもな
いと歩きながら、何か目印になるものはないかと目をこらした。大学はルートヴィヒ通り
という大通りをはさんで立っており、その通りに沿ってしばらく歩いていくと、緑の芝生が
目に鮮やかな二つのロータりーに出た。ふと上を見ると標識が立っていて「ショル兄妹
広場」と書かれている。もしかして、と道路の向かい側のロータリーに行ってみると、そこ
の標識には「フーバー教授広場」とあった。特別にこれといった記念碑もない、普通の広
場なのだが、「白バラ」の学生運動に心から共鳴を覚えていた私には感慨胸に迫るものが
あった。
 「白バラ」--何と可憐で美しい名前であろうか。このグループはナチスの猛威が吹き
荒れる中、「白バラ通信」と題するパンフレットを配って勇敢な抵抗運動を行なった。はじ
めは数人の学生によるささやかな同盟だったが、次第に理解者を増し、大きなうねりとな
っていったのである。その中心者だったのがハンス・ショルとゾフィー・ショルの二人の
兄妹だった。
 彼等は自ら謄写機を使って「通信」を作成し、ミュンヘン大学をはじめ、市内の各家庭
にも広く配布した。その内容は、作成者が見つかったならば即死刑、といった大変勇気あ
るものであった。
 「ヒトラーの口より出る言葉は、ことごとく虚偽である。彼が平和を唱えるとき、考えて
いるのは戦争であり、彼が冒涜きわみなくも全能者のみ名を呼ぶとき、思っているのは
悪の力、堕罪の天使、サタンなのである」。
 抵抗運動に賛同した人の中には大学教授もいた。哲学の名講義で学生に最も人気の
あったといわれるクルト・フーバーは、「白バラ」の学生の集いでこう語った。
 「われわれの努めるべきことは、何百万という誠実なドイツ人の胸にくすぶっている抵抗
の火花をあおって、明るく強く燃え立たせることだ」
 多くの知識人や文化人がナチスに取り込まれていった中で、この勇気ある学生と教授の
行動は、ミュンヘン市民にとって少なからぬ驚きであった。もろ手をあげて感激する者も
いれば、腹を立てて拒絶する者もいた。協力を約する者もいれば、警察と一緒に目を光ら
せる者もいた。ショル兄妹はときどき出所不明の警告を受けることがあった。それでも彼
らは抵抗の手を休めなかった。「白バラ通信」は続けて三部出され、ミュンヘンだけでな
く、他の南ドイツの町にも広がっていったーー。
 広場にしばしたたずんだ後、私は大学校舎の周辺を散策した。まさにこの場所で、ショル
兄妹は勇気ある行動を展開していたのである。私の思いはいつしか五十年前に飛んでい
た。時は冬、凍てつく寒さの中で、夜と霧に紛れて必死にパンフレットを配るハンス。
「真実の声」を市民に伝えようと、息を凍らせながらビラを壁にはるゾフィー。共に助け合い、
共に励まし合いながら夜道を駆ける二人の姿が、私の目にほのかに浮んだ。
 一九四三年二月十八日ーーそれは二人の兄妹にとって「運命の日」だった。二人は朝早
く大学に向かい、トランクいっぱいに入っていたパンフレットを、玄関から廊下にかけて
ばらまいた。しかし不幸にも彼等の行動を目撃した者がいたのである。それは学校管理者
であった。彼は即座に校舎全体の扉を閉めて警察を呼び、二人を逮捕させた。急速な裁判
によって、兄妹を含む三人の学生はわずか四日後に処刑された。兄は二四歳、妹は二十
一歳であった。死を前に彼等は少しも恐れることなく、その毅然とした態度は、死刑執行
人をも圧倒させたという。数ヵ月後、フーバー教授を初め、主要メンバーが処刑された。
 兄妹が逮捕されたときに配っていた「最後のビラには次のような一節があった。
 「われわれの関心事は真正の学問と、純粋な良心の自由である!」
 これほど尊く、美しい響きがあろうか。彼等の魂の中では「学問」と「良心」が一致して
いたのである。これは驚くべきことである。というのは、当時、ドイツにおいても、また
ナチスと手を組んだ日本においても、大半の学者や芸術家は己の「学問」を守るために
(あるいはその理由のもとで己の命を守るために)戦争に協力し、権力に「良心」を売り
渡したからである。
 ショル兄妹の力強い「良心」は、彼等の父親に影響するところが大きいようである。彼
はつねづね子供たちにこう語っていたという。
 「物質的な安全だけでは、われわれを幸福にするにはけっして十分じゃない。われわれは
なんといっても人間だよ。各人が自由な意見、自分の信仰を持っている。こういうことに
まで手出しする政府は、人間に対する畏敬をこれっぽっちも持っていないのだ」
 「わしは、お前たちがまっすぐに自由に生き抜いてくれることだけを願っている。たとえ
困難であっても」
 ユダヤ人に対するナチスの迫害も、その本質は「ユダヤ教」に対する「国家主義」の
権力による迫害である。しかし一人の人間のアイデンティティというものは、結局のところ、
その人の思想や宗教に帰着するのである。それを権力によって弾圧しようというのは、
まさに「人間に対する畏敬をこれっぽっちも持っていない」人間のすることである。
日本の指導者はショル氏の言葉を重く受けとめるべきであろう。
 大学を散歩していたら、いつの間にか時計は夕刻を指していた。熱く脈打つ「精神の
自由」を胸にナチスと戦ったショル兄妹ーー。彼等の勇敢な姿を胸に思い描きながら、私は
ミュンヘン大学を後にした。向かい合わせに広がる二つの広場をしばしば振り返りながら。
青く澄んだ空に吹く風が、秋の気配をかすかに漂わせていた。


























 
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by sarah-gem | 2006-05-29 18:24
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(臨川書店)の訳者による紀行文(1994年)その1
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左から
1998 『ヘッセ魂の手紙』 ヘルマン・ヘッセ研究会         毎日新聞社
1999 『ヘッセへの誘い』 ヘルマン・ヘッセ研究会・友の会    毎日新聞社
2005 『ヘルマン・ヘッセ全集』 ヘルマン・ヘッセ研究会・友の会 臨川書店
     第一回配本 大4巻 『車輪の下』 ・ 物語集Ⅱ1904-1905

2005年に『車輪の下』の訳者による解説の一部を紹介しました。
今回は、訳者が12年(11年か?)前の夏休み、ドイツに短期語学研修で滞在した折に
合間をぬって欧州を駆けめぐり、文豪・芸術家・思想家・哲学者ゆかりの地を訪ねた中、
ひときわ印象深かったことを短文にまとめたものを紹介します。
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『欧州における旅と思索』           文学部人文学科3年  伊藤 貴雄
  第1節 プリンセン運河二六三番地

 「私たちのすばらしい『隠れ家』--戦時下のアムステルダムで、十三歳のアンネ・フ
ランクは、自分たちの秘密の住居をこう呼んだ。それは「こんなに広くて、こんなに明る
い部屋が、運河に面したこういう古い家の中にあるなんて、とても信じられません」(四
十二年七月九日)と彼女自身が書いているように、外観は何の変哲もない運河のほとりの
建物である。しかし、その中ではーー今からちょうど五十年前にー信じられないほど感
動的な闘争のドラマが演じられていたのである。
 九月の初めに、私はアムステルダムを訪れた。「北のベニス」とも言われるように、お
そらくヨーロッパで最も美しい都市の一つであろう。目をつぶると、たゆとう運河の水、
緑鮮やかなほとりの並木、水面に映えるこげ茶色のレンガの壁ーーそれは白い窓枠と
絶妙のコントラストをなしているーーが、今なお私の脳裏に鮮明によみがえってくる。
 その日は雨が降っていたが、青空もわずかに顔を出していた。朝早く出かけたのにもか
かわらず、プリンセン運河二六三番地の前は大勢の人がアンネの隠れ家を見ようと行列を
つくっていた。一時間はど待って私もやっと中へ入ることができた。狭く、恐ろしく急な
階段を上り、しばらく行くと、そこには有名な「回転式本棚」が開かれている。そこを通
り抜ける時、私は何かが背筋を走る思いがした。
 「絶対外に出られないってこと、これがどれだけ息苦しいものか、とても言葉には言い表
せません」(四十二年九月二十八日)--アンネの声が聞こえるようだ。彼女とその家族
を含む八人の人々が、ここでゲシュタポの目を逃れて約二年間の生活を送ったのである。
それがどれほど不便な生活であったか、想像を超えたものがある。もちろん風呂などない
し、トイレは夜しか使えない。病人が出ても医者さえ呼べなかった。だが十三才の快活な
少女にとって、これら生活の不便にもましてつらかったことは、活動範囲を著しく制限さ
れたことであった。
 「・・・・・人と話したい、自由になりたい、お友達が欲しい、一人になりたい。そしてなによ
りも・・・・思いきり泣きたい!」(四十四年二月十二日)
 しかし、泣くことさえも許されていなかったのである。
 感慨にふけりながら、私はつぎにアンネの部屋へ足を踏み入れた。ここで彼女は「日
記」を書いていたのであるが、入ると同時に私は思わず目頭が熱くなった。
 というのも、その部屋の壁には左右両面に、写真や絵画、映画スターの切り抜きなどが
びっしりと貼られていたからである。大きな田舎の写真もあれば、赤ちゃんや子供のかわ
いらしい写真もある。右側の壁の片隅に、のダ・ヴィンチの自画像が貼ってあったのが微笑
ましかった。
 幅は二メートルもない狭い部屋である。その殺風景な壁を少しでも明るいものにしよう
と、少女は並々ならぬ工夫をしたのだった。そこには健気な心があった。あの偉大な魂の
記録である「日記」の背景に、このような涙ぐましい努力があったのかと思うと、私は深い
感動を禁じ得なかった。この部屋を訪れて、戦争の生々しい傷跡に胸のうずきを感じな
かった者はおそらく一人もいないであろう。
 圧倒される思いでアンネの部屋を出て、階段を上ると、彼女が恋人のペーターと一緒に
多くの時を過ごした部屋があった。この部屋の窓から彼女はよく外を眺めていたようであ
る。
 「そこからは、アムステルダム市街の大半が一目で見渡せます。はるかに連なる屋根の
波、その向こうにのぞく水平線。それはあまりに淡いブルーなので、ほとんど空と見わけ
がつかないほどです。
 それを見ながら、私は考えました。『これが存在しているうちは、そして私が生きてこれ
を見られるうちはーーこの日光、この晴れた空、これらがあるうちは、けっして不幸には
ならないわ』って」(四十四年二月二十三日)
 何と強く、そして美しい心であろうか。アンネは別の日に次のようにも言っている。
 「(略)私は、どんな不幸の中にも、つねに美しいものが残っているということを発見し
ました。(略)それだけの勇気と信念を持つひとは、けっして不幸に押しつぶされたりは
しないのです」(四十四年三月七日)
 つらく悲しい日々が続く中で、アンネは偉大な楽観主義で明るく生きようと努めた。そ
して彼女にとって自己の魂との対話であった「日記」を通して、彼女は人生への洞察を
深めていく。その恋愛観、女性観から人間観、社会観に至るまでの幅広い考察には、こ
れが十四歳の少女の手になる日記なのかと、私たちはただただ目を見張るばかりである。
またその頃から彼女は一つの夢ーージャーナリストになりたいというーーを持つようにな
る。
 「(略)私は世間の大多数の人たちのように、ただ無目的に、惰性で生きたくはありませ
ん。周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。
(略)私の望みは、死んでからもなお生きつづけること!」(四十四年四月五日)
 私はアンネのこの言葉を、日本の文化人や政治家、ジャーナリスト達に聞かせたいと思
う。これほどの大志を抱いてペンを持つ人がいったい日本にどれほどいるのかーーと。多く
は商業主義に毒され、真実かどうかもわからないスキャンダルのオンパレードで金稼ぎに
狂奔しているだけではないか。またそれらの「うたかた」の如き言論に惑わされる国民も、
まことに哀れというべきではないか。
 しかし、文筆によって人に尽くしたいというアンネの美しい大志も、卑劣な密告による
「隠れ家」の住人の全員逮捕によってあえなく打ち砕かれてしまうのである。一九四四年
八月四日午前十時のことだった。半年後にアンネは、リューネブルクの強制収容所で、
チフスに感染し、十五年の生涯を終えた。
 「隠れ家」を出て資料室に入ると、本物の「日記」が展示してあった。赤いチェックの表
紙のそんなに大きくはない日記帳である。アンネの直筆を見て、言い知れぬ感動を覚え
つつ、私は、平和への誓いを胸に、プリンセン運河二六三番地をあとにしたのだった。
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by sarah-gem | 2006-05-29 17:53
宝石のパワーを貴方に・・・・朝風と多面体カット・クリスタル
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空はすこし曇っていますが、窓辺の水晶です。
(もう少し近くで撮ったのはカットがぼけてしまいました。接写も勉強します。
輝く朝日のもとでの写真もまた、おおくりしますね。
むこうに工事現場がすこし映りこんでいるのがいまひとつです。)

この多面体カット水晶は、とても不思議な出会いから入手したものです。
数年前、アダムスキー50周年大会東京会場に入ったとたん、目の前に、かねてから
愛読していた絶版の本「正多面体の超パワー」の著者、秋山 清氏が立っておられて
びっくりしました。
秋山さんは、ご自分の本の愛読者ということで喜んでくださり、それから交流が始まり
ました。
秋山さんの本は、昨年あたらしく『神の図形』として出版されました。
正多面体カットの水晶には大きなパワーが秘められ、発信されているそうです・・・・
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by sarah-gem | 2006-05-29 09:07
今、悲劇が進行しています・・・・
5月の白バラが、咲き終えるころとなりました。
朝日に光る花は美しい。でも、夜に香るバラの素敵さは、また格別です。
今年もたくさんの人を楽しませてくれました。

でも、今、我が家にとって悲しいことが起こっています・・・・
白バラの生垣から少し先に工事がはじまりました。
花には直接影響はないのですが、見下ろす我が家の2階からの眺めに
異変が!
2階の窓からみえる白川のうねりと緑の木々の風景は、まさに英国風と
いうか、絵のような美しさ・・・・
涼しい風にゆれる目の前の枝にハトが揺れながらこっちをのぞきます。
訪ねてくださる友人たちや私にとって、なんとも言えないなごみの空間で
す。
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しかし、「です」から「でした」になるおそろしい時を迎えました!
新しくできる建物で、その麗しい眺めが半分に削られてしまうのです。
これ以上の悲劇はない!
・・・・・と、このところ私は激怒しています。
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しかも、工事を堤防ぎりぎりまでしていることから、毎日ここを通っていた人たちは
突然立てられた「迂回してください」の看板に怒っています。
工事現場の人たちの応対の仕方にも、改善が望まれます。

こういうことを味わうと、あらためて、日頃からお世話になっている良心的で環境や
都市計画に貢献しておられる建築家の方たちの姿勢に心打たれます。
 *リンクにも ( 小椋住宅・白木力建築設計室・松下生活研究所などの )
白川も方針転換によって、以前の人工的な護岸から、自然な感じの川岸へと嬉しい
変化をしてきました。
でも、その川岸に沿って建つのは、てんでんばらばらの色、形、方角の建物で、なん
とも品格に欠ける眺めです。
近所にも全体にも配慮しての建築を目指し、大いに向上していただきたいものです。
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この景色も、もうすぐ変わります。
その前に、皆さまに緑の木々の風を贈ります・・・・・・
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by sarah-gem | 2006-05-28 17:56
熊本のおいしい水が 「熊本水物語」 になりました。
2006 5月8日(月) 熊本ホテルキャッスルにて
熊本オフィシャルウオーター『熊本水物語』の発表会
主催 熊本市

全国的に高く評価されている天然地下水をペットボトルに入れ、熊本市の
公式飲料「オフィシャルウオーター」として、会議やコンベンションなどで、
広く使用してもらうことにより、地下水の都市・熊本と、天然地下水に恵ま
れた暮らしの価値をアピールしていく目的です。
と同時に、この地下水の貴重さと、大切に守り続けていく心を、より多くの
方々に理解していただくことが目的です。
 
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     5月の窓辺の緑と『熊本水物語』
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by sarah-gem | 2006-05-21 21:24
平成17年度 節水社会実験報告書 が出来ております。
熊本市民と行政のパートナーシップでスタートした、「熊本市節水推進
パートナーシップ会議」。
私たち熊本市民の水への取り組みが、とってもわかりやすくまとめられ
ました。
どなたでも欲しい方は、ご覧になれます。
熊本市水保全課にお尋ねになってみられませんか?

報告書と その中の「わくわく節水倶楽部入会申込書」  入会無料
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            「わくわく節水倶楽部会員名簿」  現在約11万人
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*個人・団体・企業 入会の形はいろいろお選びいただけます。(無料)
*熊本市からのニュースで最新の情報を入手できます。
*「環境への取り組みに積極的な企業」としてのイメージアップにも・・・・
***ブログ 5月2日のニュースとあわせてごらんください。
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by sarah-gem | 2006-05-21 18:28
なんと「表彰状」が!熊本市民の皆さま、ご協力ありがとうございます!
5月18日(木)の「節水推進パートナーシップ会議」の席上、行政の
水保全課から、嬉しいお知らせをいただきました。

平成16年度に作成された「くまもとわくわく節水行動計画」を基本に
平成17年(昨年)7月、『節水社会実験』がおこなわれました。
この「節水市民運動のはじまり」にたいして、評価をいただきました。

もうすぐ、今年7月の「第2回節水社会実験」。
ご一緒に、「一人一人が」・「いま使っている水の10%をへらす」ことに
チャレンジいたしましょう!
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by sarah-gem | 2006-05-21 17:52
節水会議・テーマは「水」なのに、熱い議論が沸騰します・・・
意見が沸騰(ふっとう)するのも、熊本の地下水を守る思いがあればこそ!
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by sarah-gem | 2006-05-21 17:34
熊本市の節水活動は いよいよ本格的な段階に・・・・!
2006 5月18日(木)
4月に続いて、今年度第2回目の「節水推進パートナーシップ会議」がありました。
                      * 市民と行政の共同活動
今日は、会議の様子をお送りしますね。

市民のメンバーと、行政(水保全課や水道局のスタッフの方たち)で行なわれる会議
全体を運ぶのは議長の熊本県立大学・篠原教授です。
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by sarah-gem | 2006-05-21 17:25